医療的ケア児となった経緯

こんにちは!4回目の投稿になります!何とかブログ三日坊主は回避できそうです笑 

今日は家族が母方の実家へ帰省します。

私(父)は仕事があるので残りますが、ちょっとだけ寂しくなりますね^_^; 

まあでも私(父)も久々に1人で羽根が延ばせるのでのびのびやりたいと思います!!笑 

帰省先は車で数時間と少し距離はありますが、父の地元である大分と同様結構自然豊かな所になります(^^)

私は都会よりは田舎の方が大好きなんですが、長女のことも含め子供のことを考えると今は都会の方が便利ですね(・・;)

今の住まいは埼玉で割と都心寄りなのですが、時間見つけてちょこちょこ帰りたいものです!

まあなかなか時間が取れないんですが・・・笑

さて、今回は長女の生まれてから医療的ケア児になるまでの話をしたいと思います。結構重い話になりますが、何度か話を分けて少しずつお伝えしていきたいと思います!

長女は2016年に生まれました。当時は北関東に住んでおり、母方の実家最寄りの産婦人科で出産予定でした。

しかし、出産予定の数週間前にエコー写真で異常を告げられ、遠方の大病院へ転院し出産することになりました。

転院先でも病院の医師の話では何らかの異常があり生まれてくる可能性が高いとのことでした(;_;)

当時、私(父)は仕事が忙しく子供が生まれる前までは出産というイベント自体は少し楽観的に考えてました。

生まれるまで不安を持ちながら過ごしましたが、残業疲れのなかふとスマホを確認すると

『普通の子を産めなくてごめんなさい』

当時妻から連絡のあったLINEの内容です。今でも覚えています。

出産前の妻のお腹は非常に大きく浮腫んでいました。

転院後複数の医師から説明を受けることになりました。出産前に担当医から

『検査の結果、〇〇症候群の可能性がある。私ならもっと早くわかった』

私はそれを聞いてショックを受けると共に滅茶苦茶腹が立ちました。

『私ならもっと早くわかった』って何だよ!!

出産直前の両親がいる前でよくそんなことが言えるな!!って思いました。

早くわかったからって何?中絶を選択させる可能性もあったってこと!?

そこまで重い病気を持って生まれてくるってこと!?

当時、胸倉を掴んでやろうかと思うくらいに腹が立ちましたが、我慢しました…

しかし想像するだけで不安に加えて恐怖も感じてきました。

そして長女は無事に出産となりましたが、自分で呼吸ができず、すぐにNICUという新生児集中治療室に移りました。

そして日本語標記だと長女は「ベアレイ・スティーブンソン症候群」という病名を告げられました。

ファイファー症候群、クルーゾン症候群という類似した病気もあるようですが、ベアレイ症候群は非常に珍しい部類のようです。頭蓋縫合早期癒合症、機動狭窄、肢体不自由等、様々な障害が残る可能性について告げられました。

遺伝科の医師の方はかなり言葉を選んで説明頂きましたが、少なくとも難病であることははっきりわかりました。

その数日後、生まれながらに気道が狭く、自分で呼吸ができないという理由から、「気管切開手術」をすることになります。

気管切開することで自分で呼吸できるようにはなりましたが、カニューレという医療器具が必要となり、この時から医療的ケア児として生きていくことになりました。

待望の第一子の出産であったため、当時はかなりショックで不安しかありませんでした。

今はそう思っておりませんが、当時は希望が絶望とも思えた時期でもあったかと思っています・・・

自宅から病院までは片道1.5時間くらいかかっていましたが、移動中も妻はずっと泣いていて私もどう励まして良いのか困惑していました。

「ああ、最早仕事どころではない」という状況でしたね(;^_^A

その頃から私の人生観と言いますか、生き方に対する考え方が変わってきたように思います。

長女が生まれて怒涛の生活がスタートしましたが、その数年後、次女が生まれました(^^)/

もちろん次女の出産も立会いましたが、これが普通の出産なんだけど実感しました。今思い返せばあの時全てが普通じゃなかった気がします。

今日はこの辺で!続きはまた明日!写真は大分県別府市の鉄輪温泉から。

地獄蒸しグルメも含めて散歩するだけでも楽しめる場所です♪もちろん温泉もお勧めです!

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